ミャンマー僧侶体験・手記  
<2004年11月24日〜12月10日>


横川雅喜氏  <寄稿: 2005年1月10日> 
ミャンマー僧侶体験に参加して・・
「あと一時間半後にはヤンゴンか・・セアロ様にお会いしたら何と挨拶しよう・・」2004年11月26日、タイ国際空港のトランジットルーム。ヤンゴン行のフライトを待っていたその時、突然、けだるい空気を一掃するかのような凛とした空気が待ち合い室に入ってきました。

えんじ色の法衣に長い杖。「セアロ様だ!」その後は何と挨拶したのか覚えていません。ただ、気がついたら膝まずき三拝していました。(カンボジアから直接ミャンマー入りされたセアロ様一行のフライトと一緒になったのです)そこから、私のミャンマー僧侶体験&人道支援ツアーは始まりました。

セアロに初めてお会いしたのは昨年9月のこと。岐阜県高山市で開催された個人面談の時でした。当時、自分を見失いそうな問題を相談しに行った私に、「ミャンマーで僧侶の体験をしてみればよい」とのお言葉を頂いたのが、今回の僧侶体験に参加させて頂いたきっかけです。

まったく初めての僧侶体験、しかもミャンマーの僧侶体験を通して、言葉にするのが難しいほどのかけがえのない学びを頂きました。今さらながら、法衣を着させて頂いた意味の深さを感じています。

僧侶体験・・
得度式を行って頂き、2週間の限られた間でしたが僧侶として得度しました。(私の他、僧侶体験に加わったのはエリ吉を含む2人のアメリカ人でした)仏教国であるミャンマーは人々の仏教に対する信仰がとても厚い国です。奉仕をすることが「功徳」を積むことであること、それが生活にしみ込んでいるミャンマーでは僧侶をとても敬い、手を合わせて三拝します。ミャンマーで僧侶として得度し法衣をまとうこと、それは人々から拝まれる対象にもなるということなのです。

それを実感する時のひとつは、セアロの後ろに続いて歩く時でした。セアロが歩む道に多くの人々が膝まずき三拝します。その後ろに続く、我々にわか僧侶にも手を合わせ三拝します。人々から敬われる対象となる・・初めはずいぶん戸惑いを感じました。自分がそれだけの対象として値するものだろうか・・。その存在だけで深い愛を表現され、膝まずく人々の頭を触れながら歩いて行かれるセアロの後ろを、ぎこちない笑顔を返して歩いていくのが精一杯でした。

ある日、他のことでセアロから我々僧侶体験者に「お前たちは僧侶なんだ。今は人々とは違う立場にいるんだぞ!」と静かに強いお言葉があった時のこと。「私は私の存在でいいんだ。今のありのままの自分のハート全部で接すればいいんだ」ということに気がつきました。それ以来、自分を確認することなく、自然に歩くことができるようになってきたと思います。その思いは、法衣を脱ぎ、日本に帰国した今もずっと続いています。

得度式を終えた直後から、僧侶体験者はツアーグループの他のメンバーとは離れます。(人道支援には一緒に参加しますが、僧侶として参加することになります)

身近な他のメンバーの方々からの、心からの暖かい三拝や僧侶に対する礼儀に触れると、とても装った自分ではいられません。装った自分がメンバーを通して、そのまま鏡となって自分に返ってくるようでした。反対の立場にいたら、自分もあれだけのハートで僧侶に接することができるだろうか?僧侶体験を終えてから思いました。ことばを交わさずとも、目と目でお互いの存在を称え合う・・そのような感覚でした。一緒の時を過ごしたメンバーにも感謝です。

僧侶体験とは一体何を“する”のだろう? 日本出発前はいろいろと考えていました。しかし、セアロはこの2週間、お経を唱えろとか戒律を覚えろなど、“何をしろ”とは一言も言われませんでした。一回だけ、ふとした機会に「ちゃんと瞑想しているか?」と聞かれただけです。その時何をするか、何を学びとするかを、自分が自分で気づき掴んでいく・・“する”のではなく“在る”ことだと思いました。「その心となれば、戒律は後からついてくる」とのお言葉が心に残っています。

ただ、ひと時もセアロの心と愛を感じなかったことはありません。聖地チャイティヨ(ゴールデン・ロックのある聖地)での一つのエピソードです。

もの凄いエネルギーを感じるその聖地で、雄大に昇ってくる朝陽を見て言いようもない感動と生命力を感じた朝のことです。参拝や奉仕の方々が部屋を出ていかれ、セアロと二人になった暫しの時間の流れのあと、セアロがこちらを向かれ、静かに、そして唐突に一言。「もう、死ぬのは怖くないな?」驚きでした。どうしてそのことを!この期間中、そのことについては一言もセアロに話したことはありませんでした。・・魂は本当に永遠なのか・・それは、自意識にしばられ、精一杯生きることに繋がらない、私の根底にある怖れでした。

ダイレクトアクションに参加し、“ハートで今を生きる”という感覚にも触れ、見失っていた自分をとり戻しつつあった時でもありました。そのお言葉は、私の怖れを吹き消すように、私の魂に直接語りかけて頂いたものと感じています。

2週間、セアロと一緒に行動させて頂いた時に話された言葉はもちろんのこと、行動、眼差し、笑い、エネルギー、果てしない愛・・セアロの存在、そのことが学びとなる・・そのような体験でした。

日々の小さな行動の中からは、宿泊させて頂いた寺院の水源の井戸を見に行ったときのこと・・井戸の中のパイプにしっかりしがみつき、上を見上げる一匹の小さなカエルがいました。まさに「井の中の蛙」。その時の自分を見ました。

チャイティヨの寺院へ入る登り口の階段でのこと・・(履物を脱いで寺院の敷地に入っていきます)僧侶として相応しい態度でいなければ、と心で無理に背伸びをしながら登り口に立った時、トラックの荷台の上にいた人の口から吐かれたものが、階段を登ろうとする私の足にかかりました。“自分を装わず、そのままの最高の自分で歩みなさい”そう言われたようでした。

ミャンマーでは、その空気、太陽、月、人々、パゴダ(仏塔)、時間の流れ等々、それら全てが自分を見つめる瞑想的な対象です。数千年の年月を経て静かにたたずむ寺院が語りかけてくるかのようです。
 
不思議な国です。
(不思議なエピソードも沢山ありますが、ここでは敢えて割愛させて頂きます)「変わるんだ!」、初めにあったそのような気負いも途中から抜けてきました。肩書きや過去の経験にとらわれず、比べることなく、今を自分のペースで歩んで行く。ミャンマーという国からはそのことを学んだように思います。

人道支援についてのこと、ツアーのことや、ドネーションに伴う感想は、他の参加者の皆様にお譲りし、僧侶の体験を通して私が感じたことを書かさせて頂きました。今回の体験の大きな学びの一つは“今をハートで生きる”ことの感覚に触れたことです。ジャッジせず、今を感謝して精一杯自分のハートで生きる・・そのことを見つめ、その感覚に触れることができたことです。

自分でつくりあげている問題に圧倒され、生きてはいるけれども自分の生命を充分に感じていなかった私にとって、そして、分かってはいるけれども“頭で生きている”ことからなかなか抜けられない私にとって、新しい生命を頂いたような体験でした。

私にとってこの2週間は、間違い無く「自分の魂」を見つめ、感じることができた、かけがえのないダイヤモンドのような2週間でした。ミャンマーの僧侶として体験しなければ得られなかった、新たな人生を歩むきっかけとなるダイヤモンドです。

形や規則、他の人の目にとらわれることなく、何がまず一番大切なのかを見つめることができました。それは、自分の存在に疑問をもたず、自らを信頼し、自分で歩むことに繋がっています。・・人は孤独だけれども、限りなく繋がっている・・そのことも感じました。帰国してからも、まだまだその学びは続いています。

楽しんで「今」をポジティブに生きる!
今回は自分を見つめることが目的の体験でしたが、これからは、自分としてどのようなダイレクトアクションができるのか・・そのことも考えていきたいと思っています。

セアロ様、あみ夏様、メンバーの皆様、ミャンマーそして神様に心から感謝、感謝です!


横川雅喜